2015年2月1日日曜日

カトリック教会について❷

カトリック教会について❷

    聖書の中でイエスが頻繁になさったことで、影に隠れているのは神に祈った出来事である。イエスは祈りの中で神がご自分に何をお望みになられているのか、探っておられた。そして、それを与えてくださることを確信して祈られた。

    そして、イエスの真の願いは、父なる神がみなにあがめられることだった。神が人々の間で毎日の生活の中、生き方の中心の価値観となる事こそ人の生まれてきた意味なのである。

    四福音書には共通してイエスが自分の死が差し迫っていると、弟子たちに告げ彼らは理解に苦しむ。そして、受難と死に向かう準備として最後の晩餐を制定なさった。パンとぶどう酒をお取りになり聖別され、これはわたしの体と血そのものでありこの記念の儀式を再臨の時まで忠実に執り行え 、これを食べ飲む者は永遠に生きると仰せになった。これが今まで忠実に守られているミサ聖祭の起源である。カトリック教徒はミサ聖祭のたびにイエス・キリストの受難と死を記憶し、神の国の恩寵を戴くのである。  

   イエスは最初、最高法院の裁判にかけられ死刑判決が下された。ユダヤ人たちは次にローマ総督ピラトに身柄引き渡しをする。ユダヤ人だけでは死刑執行の権限が与えられていないからである。ピラトは気が進まなかったが、ユダヤ人が騒ぎだし暴動が起こりそうなのを見ると責任をユダヤ人たちになすりつけて、十字架刑にせよ。と、言ってしまった。

     イエス・キリストはなぶり者にされムチ打たれ、十字架を担いでゴルゴダの丘につき、十字架が立てられ釘付けにされた。イエス・キリストは死の苦しみと闇のどん底にあって、なおも神を信頼し呼びかけることを忘れずにいた。そして、イエス・キリストは死んだ。

    イエスは復活した。終末においての新しい天地創造をイエスが先取りなさったと言う事である。と言う事は私たち信じる者も新しい天地創造において、復活出来る希望が与えられるということである。


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